おいとま教師の記録

休職中教師の記録

様々な治療 心理教育

 前回の続きです。心理教育というプログラムを受けた時には、ストレスとの付き合い方について学んだ。そもそもストレスのメカニズムとは、人間が身の危険を(ストレッサー)を感じると、心や体を守ろうとする自動的な脳の働き(ストレス反応)が起きるということで説明できる。古来の人間は例えば熊に出会って、恐怖を感じ、身体反応としてドキドキしたり、行動反応として立ち向かったり、逃げたり、固まったりしていたが、これと現代の精神的ストレスに対するストレス反応は同じものだとされている。

 例えば、上司が怒っていると身体反応としてドキドキしたり、行動反応として、反論したり俯いたり、遠ざかったり、固まったりして防御反応を示すようになっている。

 私も、以前校長や教頭に怒鳴られたり、捲し立てあげるように指導を受けてる時に頭の中が真っ白になって、何も思いつかない、考えられない時が幾度もあった。脂汗をかくこともあった。そんな時に「黙ってないで何か言いなさい!」と言われていたが、私の心と体はストレスを受けており、防御反応を起こしていたのだ。何か言えるはずがないのだ。熊に出会ったのと同じ状態だったのだ。

 また、ストレッサーには体が感じるストレッサーと心が感じるストレッサーと仕事、職場でのストレッサーがあるとされる。体が感じるストレッサーはさらに外的と内的に分けられ、外的では

物理的なもの(自然の変化→温度、気温、日照時間、気圧)

環境的なもの(騒音、照明、埃、風通し)

肉体的なもの(身体疾患、けが、長距離通勤、長時間勤務)

科学的なもの(空気汚染、放射線、化学物質、酒、タバコ)

生物学的なもの(細菌、ウィルス、害虫、寄生虫、花粉)

があり、内的では

運動関係(運動不足、運動過剰)

食事関係(過食、少食、偏食、栄養不足)

睡眠関係(睡眠不足、睡眠過剰、夢)

生活関係(不規則な生活、夜ふかし、昼夜逆転

その他(妊娠などによる身体変化、生理痛、更年期)

 などなどが体が感じるストレス要因になりうるものたちである。私の場合は、長距離通勤や長時間労働、少食、睡眠不足、夢、不規則な生活などが体のストレスとなっていたように思う。教職員だとたくさんの人が同じものに当てはまるのではないかと思う。これらのものを私はストレス要因だと分かりつつも、働いていた時は、気にしていられず、ストレスを溜め込んでいたように思う。

 続きの心が感じるストレッサーなどについては、次回のブログで紹介したいと思います。

解決の糸口

 前回の続きです。

 再び休み始め、精神科の先生と以前の休みとの違いについて考えることとなった。なぜこうなってしまったのか、自分でも理由がよくわかっていなかった。前回は管理職と合わなかった、管理職からの圧力がすごかった、などのはっきりとした原因がわかっていたが、今回は見当もつかない状態だった。そんな話をしていると、復職デイケアに通って、リワークプログラムを受けるといいかもしれないということになった。要因分析をしたり、認知行動療法を受けたりと復職に向けて色々なプログラムを受けられたりすることを教えてもらった。現状をどうしても変えたかったので行かない選択肢はないと思い、通所することを決めた。

 最初は見学をしに行った。私と同じように休職し、復職を目指して通っている人が20人ほどいた。見学の最後に作業療法士の方と話し、私の「肩の重荷を少しずつ下ろしていきましょうね。」と言ってもらい、心が温かくなった。

 実際に通い始め、最初は週三日の午前中のみ通うことになった。行動内容は読書のみだったが、疲れが出て、帰宅するとすぐに眠ってしまっていた。毎週体を動かしていたので、体力には自信があったが、集中することによって消費されるエネルギーは思っていたより多く、疲れが出ていたのだった。

 それでも、充実感を感じていた。小グループのプログラムも3週間ほど経ってから始まった。まずは「生活の振り返りグループ」だった。自分の生活の仕方について考えたり、体力だけでなく集中力の回復が必要だということを学んだり、自分の気持ちをプラスにする行動のレパートリーを増やすことが大切だということを学んだ。

 また、自分の気持ちをマイナスにする行動の前後にプラスにする行動をすると良いということについても学んだ。私の場合だと、お笑いの動画を見ることが自分の気持ちを落ち着かせる行動だなと思った。

 今回はここまで。続きは、次回の「様々な治療」で

再び

 前回の続きです。

 殺人スケジュールをこなしていったが、5月の半ば頃から心と体の異変を感じるようになった。朝ごはんが食べられない。出勤中に吐き気がする。車からなかなか降りられない。仕事を全く捌けない。集中力がない。何も考えられない。教頭からは、少し仕事を調整しようと言ってもらい、午前中に空き時間がある水曜日は、遅めに出勤したり、時間短縮し、早めに帰ったりして働くことになった。

 しかし、そうして働き始めた最初の水曜日。遅めに出勤をしたものの、その日も車から降りられず、やっとの思いで職員室に入ったが、入るのが精一杯で教頭から「大丈夫?体調悪そうよ。」と声かけてもらったのが引き金になって涙が止まらなくなった。

 校長室に入って、校長と話すことになった。校長もこれまでしっかり話を聞いてくれており、私が無理をしない働き方を一緒に考えてくれていた。校長と話しながら、自分は治ったと思っていたことや何でこんな風になってしまったんだということを話した。子どもとの関係は良好。職場の仲間や管理職との関係も良好。みんな私のことを気にかけてくれ、私のことを認めてくれる。それなのに自分の心と体が追いついていないことへの不安やこんなはずじゃなかったという気持ちが大きくなっていったように思う。精神科の先生とも話し、5月末から6月末まで再び休むことになった。今回は校長も一緒に精神科の先生の話を聞いてもらえたことで、自分がどんな状況なのか知ってもらえたと思う。

 再び休み始めたが、前回ほどのダメージを受けている感じはなかった。少し休めばまた復活できると思っていた。不安材料があるとすれば、再び体調が悪くなった原因が当時の自分にはわかっていなかったということだろう。7月から復帰し、午前中のみの出勤をしたり、午後からキツくなったら帰ったりしながら時間を調整して何とか7月を乗り切った。

 夏休みに入ったら少し楽になるかなと思ったが、出張などが入りあまりゆっくりできなかった。8月の末になり、いよいよ学校が始まるという時になって、憂鬱な気分になったが、これはよく大型連休が終わる頃になって感じる憂鬱感と一緒だと思っていた。学校が始まって割とすぐに心身の不調を感じ、あまりよく覚えていないうちに働けなくなった。仕事を1日休み、次の週くらいから本格的に再休職に入った。

 そして、今回は、きちんと十分に休み、体調を万全にして復帰しようと決めた。

 続きは「解決の糸口」で。

 

病気の経過4 異動

 前回の続きです。最初は良かったが、すぐに疲弊していったのがわかった。わかっていたが、残りの数ヶ月我慢すれば乗り越えられると思い、我慢した。そして、異動をするまで毎日休まず出勤し、異動した。

 新しい職場は元の管内になった。元の管内ということもあり、知っている人も多かった。以前の私の働きぶりを知っている人も多く、期待されているのもわかった。新たな気持ちで再出発するんだという気持ちが大きかった。校長には異動前の打ち合わせの日に、精神面などに不安があることやこれまでの経緯について説明をし、理解してもらっていた。その上で、学級経営も授業も素晴らしいものにするんだという気持ちとやり過ぎないようにという気持ちを持って仕事にのぞんでいたつもりだった。自分は元気になったんだ。治ったんだ。やれることは可能な限りやる。そう思って仕事をしていた。新しい職場の教頭は、私がやり過ぎている時にはストップをかけてくれていた。こまめに調子を気にかけてもらっていたように思う。

 4月は学級事務がとても多い。さらに、新しい職場でやり方が今までと違い、時間がかかった。その分他の仕事が溜まり、プリントの山が溜まってくると捌けていないのが可視化され、嫌な気持ちになった。それでもきちんと捌いてしまって、仕事をなんとかこなした。息を吐く間も無く、運動会の練習が始まる。ここに至るまで家庭訪問やその他の学校行事も目白押しで本当に息を吐く間がなかったと思う。周りの職員とも殺人スケジュールだねと言い合いながら仕事をしていった。

 殺人スケジュールをこなしていったが、5月の半ば頃から心と体の異変を感じるようになった。朝ごはんが食べられない。出勤中に気持ち悪くなる。車からなかなか降りられない。仕事を全く捌けない。集中力がなく、何も考えられない。予期せぬ体と心の異変だった。

 続きは、次回「病気の経過5」でお話しします。

病気の経過3 復帰

 前回の続きです。日中活動的になったり、やりたいことが出てきたりした。日中に仮眠することもなくなり、もともと好きだった登山をたくさんするようになった。登山をしながら人生は登山と同じだと考えた。山頂という目標に向かうという目的は同じだが、登り方は様々ある。まっしぐらに登ることもできるが、途中休憩をしながら登ることもできる。休憩をしながらいろんな景色を楽しんだり、足元を見てその様子を観察したりするのもいいだろう。途中で休憩することで、まっしぐらに登る時には見れない物や感じることが多くある。人生も同じで、休むことで見えるもの感じるものがある。そうして、たくさんのものを見て、感じて山頂(目標)に到達した時には、見える景色が違ってくると思う。そんなことを感じるようになってきた。休んでよかったと思えるようになってきたのだった。

 心と体は12月くらいになると落ち着いてきたが、仕事をすることへの不安はあった。元の職場に戻らなくてはいけないことや周りの目、体力面など多くの不安があったが、異動をするためには1月に復帰をしなくてはいけなかったので、1月から復帰をした。最初の2週間ほどは2時間勤務をし、授業は1時間のみ行った。それ以外の授業や学級業務は、私が休んでいる間に担任代行をしてくださっていた教務の先生が引き続きしてくれることになった。本当に感謝しても仕切れない。

 そこから徐々に勤務時間を増やしていったが、午前中勤務を続けている時に、教頭から「いつまで時間短縮で働くか見通しは持っていますか?」と聞かれた。いつまでも半日じゃダメだろと言われた気分になった。見通しは立っていなが「はい。今週までです。」と答えてしまった。まだ半日勤務をしていたかったのが本音だが、言い出すことができず、次の週からフルタイムで勤務することとなった。復帰してから3週目のことだった。残業をしないように心がけていた。しかし、ここから様々なことが狂いだす。

 続きは次回、「病気の経過4」で

 

病気の経過2 復調の兆し

 

 前回の続きです。休み始めて2ヶ月くらいになると、だんだんと動けるようになってきた。そこで妻は、私を外の世界に連れ出してくれた。大分の湯布院に温泉旅行に行ったり、北九州に焼肉屋ステーキサンドを食べに連れていってくれた。豊かな自然を見たり、美味しいものを食べることで、幸せを少しずつ感じるようになっていった。

 そんな時、私の体と心が一気に回復する出来事があった。元同僚が久しぶりに私に連絡してきた。内容は、一緒に山に登らないか、というものだった。私はもともと登山をするのが好きで、今回連絡をしてきた元同僚は、私に山登りの楽しさを教えてくれた、言わば師匠のような人だった。

 とはいえ、体力に少し自信がなかった私はどうしようか悩んだが、妻からも行ってきたら?と言ってもらい、登山に行くことに決めた。私の家の近くにある山に登ることになり、その日を迎えた。集合場所に集まり、元同僚の車に乗って目的の山へと向かった。車内では案の定、私の休職についての話になった。私は、それまでにされたことや言われたことなどについて洗いざらい話し、元同僚はそれを黙って聞いてくれていた。

 やがて到着し、山に登り始めた。緩やかな登山道を進み、途中でふと、景色を見てみた。今回登った山は、過去にも登ったことがある山であったが、この日見た景色は、今まで見てきたどんな山の景色よりも綺麗に見えた。踏み締める土の感覚も、山の匂いも、草木の緑も、空の青さも、陽の光も全てに感動することができた。こんな感覚は、初めてだった。この日を境に、体調が一気に回復していくのだった。

 復調していったことにより、私の考えがどのように変わっていったのかは、次回「病気の経過3」に書いていこうと思います。

病気の経過1

 前回の続きです。2022年の9月に休み始めて、すぐに通院した。妻が職場の養護教諭に相談してくれ、病院をピックアップしてもらった。その後妻に一件ずつ電話をしてもらったのだが、どこも予約が取れなかった。のちに一件だけキャンセルが出たとのことで予約を取ることができたので、その病院に行くことにした。

 病院の先生にはこれまでの経緯を伝え、休むのは逃げだと思い休めないでいたことなどについても全て伝えた。病院の先生は「休むことは逃げじゃないですよ。今までよく頑張ってきましたね。」と受け入れてくれた。悪いのは私ではないことも教えてくれた。話を聞きながら涙が出てきた。報われた気がした。そこでやっと心と体をしっかり休めようと思った。

 先生からは足りないと思うけど、まず1ヶ月の休みで診断書を書くねと言われ、休み始めた。こんな感じで休み始めたが、この1ヶ月は本当に生きた心地がしなかった。休んだ初日は微熱が出た。それだけストレスがかかっていたのかと改めて感じた。何もする気が起きない、ベッドから1日中起きられなかった日もあった。気づいたら夜になっていた時もあった。仕事の夢を見て、起きたら泣いていたことや叫んでいたこともあった。そんなこんなで1ヶ月が過ぎ、休みが全然足らないと思い、正直に先生に伝えると年内いっぱい休みもうねと言われ12月31日まで休むことになった。

 2ヶ月半くらい過ぎると徐々に動けるようになってきた。ここで一気に体調が回復する出来事があった。このことについては次回「病気の経過2」に書きたいと思います。