おいとま教師の記録

休職中教師の記録

病気の発症3 休んだきっかけとなった日

 前回の続きです。休む前日に私と教頭と他の職員の4人ほどで会議をしていた。秋に開催される、人権の児童生徒集会で我が校が発表する内容とスケジュールについて話し合うためだ。会議では、案を出す、「そうすれば。」、「スケジュールは?」といつものように冷たい返しがあり、会議の後には、私と二人きりになったところで、「だから夏休み中に話し合わなかったもん。」と言われた。夏休み中にそのような時間はなかった。その年の冬に控えた研究発表会の準備や話し合いをこれでもかというほど詰め込んでいたことで、この件について話し合う時間はそもそも設定されていなかった。そんな時間も物理的になかった。

 ここにきて「お前のせいだ。」と言われた気分になった。そうではない。自分が無理矢理にでも時間を作ればよかったのだ。とも思ったが、様々なことを考えた結果、やってられなくなった。「ああ自分は明日休むんだろうな。」と思った。数時間後、別の職員が教頭に呼ばれ、校長室で怒鳴られていた。それを聞いて、なおさら休みたい気持ちが高まった。

 初めて休んだ日の朝、私は起きることができたが、動くことができなかった。出勤しなくてはいけないという気持ちと休みた気持ちがせめぎ合った。スーツの上だけを着て四つん這いになっては、床に突っ伏してを繰り返していた。休みますと電話をしたら何て言われるだろうか。責められるのではないかと考えたら電話をできないでいたが、やがて起床した妻に「仕事に行かなくていいよ。私が電話する。」と言ってもらい、ようやく休む決心がついた。この時に妻に助けてもらわなければ、私は完全に壊れていただろう。妻に感謝である。

 今回はここまでです。次回から病気の経過と休み中の出来事について書いていきます。

病気の発症2 教頭との出会い

 前回の続きです。

 コロナ禍ということもあり、運動会が2回延期になったこともあった。運動会が延期になったことにより、研究従業と運動会と修学旅行が一週間おきにやってくるという通常では考えられないスケジュールになり、私は精神的にも肉体的にも疲弊した。そんな時も、勤務時間が終わり、残業をし、帰ろうとした時に校長室に呼び出された。「ぶっちゃけ今どんな調子だ」と聞かれたので、「正直しんどいです。」と伝えたら、「お前のスケジュール管理の仕方がダメだから、精神的にも肉体的にもキツくなっているんだ。」と言われる始末だった。

 一つ一つの仕事に100%を求められ、教頭の思うようなものになるように仕事を進め、教頭の為に仕事をすることで、もともと低かった自己肯定感や自尊感情は底を尽きていった。全てに全力投球なので、仕事を捌くのにも時間がかかり、帰るのが毎日11時や12時近くになっていった。翌朝5時には起きて出勤しなくてはいけないので、体力も使い果たし、疲弊していった。

 同僚からも「本当に大丈夫?」と聞かれることも多くなった。自分でもどんな顔をしているのかわからない。笑顔も作れない。「大丈夫です。」としか答えられな苦なった。血便も続いた。出勤中に胃がキリキリと痛み、吐き気を催すようになった。ご飯が食べられなくなった。毎日に希望を持てない。自分に価値なんてないと思うようになった。

 反抗はできない。自分や環境に負けられない。休むことは逃げだ。この状況から逃げることは自分の成長の為にならない。そう考えていた。2022年9月、ついに耐えられなくなって休むことになった。

 この日何があったのかは次回、「病気の発症3」に書きたいと思います。

病気の発症1 校長、教頭との出会い

 体の異変に気づき始めたのは2020年からだった。職場が異動により変わり片道90分かけて通勤していた。親の介護などがあるため引っ越すことができなかった。異動を自宅から通える場所にしてほしいと伝えた結果がこれであった。初めての管外異動。新しい地域に行くと、その地域の職員や子どもたちの質はガラリと変わる。異動初年度にその違いに驚き、衝撃を受けたが、なんとなくで1年間を終えることができた。

 衝撃を受けたことは様々あったが、初年度に一番苦しかったのは校長の考え方だった。成果を挙げることが大切。そのために自分は何をやったのか。あなたの考え方はダメ。私の考え方の方がいいからそうしなさい。というようなことを1年間ことあるごとに言われ続けていた。自分の案を伝えようとしても「で?だから?」と言われるので、だんだん意見を述べにくくなっていった。前の職場では、自分の頑張りなどに対してしっかりと認めてくれる雰囲気の中で仕事をしていたので衝撃が大きかった。

 しかし。この1年は序章に過ぎず、翌年の2021年からが最も自分の体調に変化が起こっていった。この年から新しい教頭が赴任した。教育委員会から来たこの教頭との出会いが自分を壊していった。学級経営の仕方、授業の仕方、働き方、全てに対して、ダメだと言われ続けた。露骨にはっきりと、態度と言葉で。「だからお前はダメなんだ。」、「お前の学級開きは不合格。」、「自分の想像力の無さを理解しなさい。」、「お前法律のこと知らないだろ」、他の人は何ヶ月も遅れて提出してもお咎めなしなのに、私が週案を提出するのが少し遅れると職員室で怒鳴る。などなど、数え出したらキリがない。相談すると、教頭も「で?だから?」と言われ、案を述べると「だったらそうすれば」と言われるか「そんなのではダメ、俺の考え方が正しいからそうして。」と言われ続けた。勤務時間を過ぎ、残業をした後、退勤しようとすると、「ちょっと10分だけ」と言われ、校長室に連れていかれ、1時間以上説教または、教頭の授業の映像を見せられ、感想を言わされるという苦痛の時間もあった。もちろん成果も認めてくれない。

 例えば、全国学力調査があるから成果を出せと言われた。点数が低いと「お前は何をしていたんだと思われるからだ。」と言われた。毎日6時間目は過去問を解いたり、解説したりする対策の時間を作れと言われたのでそのようにした。傾向や対策を考えるために時間もたくさん使った。結果は、全国平均、県平均を超え、偏差値も十分成果が出たと思われる結果だったが、「全国平均と県平均を超えただけだろ」と言われた。

 また、学級通信の書き直しを毎回6回程度行っていた。他の同僚が訂正前のものを読んでも問題ないと感じているものでも何度も書き直しをさせられ、「こんなものは学級通信ではない。俺が思う学級通信はこういうのだから、こう書け。」と言われ続け、書くのが苦痛だった。ちなみに学級通信は絶対書かなくてはいけないものではない。現在は縮小傾向にあり、現在勤務している学校はB5の時間割の上に連絡事項などだけでよく、書くことがあるときはB4で出すようになっているが強制ではない。

 

まだまだ続きがあるが、今回はここまで。「病気の発症2」に続きます。

病気発症までの私

 私は1994年生まれの29歳である。小学校の教師になって今年で9年目になる。病気を発症するまでの私は、仕事に関してやる気に満ち溢れ、向上心を持って様々なことに取り組んでいたように思う。県大会の授業者をする、公開授業を何回もする、研究授業の授業者を毎年する。今考えると、仕事のモチベーションは名を挙げることや肩書き、授業力も学級経営も他人が見た時に凄いと言われることを目標に仕事をしていたように思う。

 しかし、自己肯定感が低く、何をどうやっても満たされることがなかった。例えば、仕事では、周りの人から「学級の子どもたちがよく育っている。」と言われても「そんなことはない。」と考えていた。他にも公開授業などをした際に、「良い授業だったね。」と言われても「そんなことはない。もっとできることがあったはずだ。」と常に考えていた。まだまだやれることがある、本当にこれでいいのか、教師というものは○○であるべきではないか、そのように考えると、自分には優れている部分は特になく、何もない人間だと感じることが多々あった。

 仕事以外の部分でも人にどう思われているかを考えすぎていたように思う。少しでも良い自分を見せたい、見栄を張りたい、自分の価値は自分自身ではなく、自分の周りにある物や人にあると無意識のうちに思っていた。そして、自分に無いものや環境を恨み、傷つき、傷つける生活をしていように思う。(私の私生活や家庭環境などについては、今回の記事をひとしきりまとめてしまった後に別でまとめ直して掲載します。)

 そんな私が体の異変に気づき始めたのは、2020年のことだった。とある校長との出会いと新しい環境で働き始めたことが、私の心の中と体を大きく変えていったのだった。

 続きは「病気の発症」に書いていきます。